その他 見所

雄略天皇陵古墳
 
 


翠鳥園遺跡公園
(羽曳野市翠鳥園)

雄略天皇陵古墳
(羽曳野市島泉)

前の山古墳
(羽曳野市軽里)
 羽曳野市の「古市古墳群」と呼ばれる古墳の町の中に、およそ2万年前の石器作りの跡が当時の状況そのままに30ヶ所以上も発見された翠鳥園遺跡があります。(現在は、遺跡公園として整備され公開されています。)石器を作るために打ち割った石を表した大きな卵形のモニュメントを通り抜けると、目の前には旧石器時代の石器作りの光景が広がっています。
 石器作りの跡にはおびただしい数の石のかけらが残され、中には石が飛び散った様子から、作り手のいた場所がわかるものもあります。
 石器の材料になった石は二上山の麓でとれるサヌカイトです。するどく割れるサヌカイトの特徴を生かして、先の尖(と)がったナイフ形石器が主に作られていました。出土したのは500点以上の石器のほかに、石器を作る時に出た2万点以上の石のかけらです。これらを接合すると、割る前の元の石の姿を復元することができ、旧石器時代の石器の作り方を、詳しく知ることができます。
 島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)は、大阪府羽曳野市島泉八丁目にあり、古市古墳群の西北部に位置する円墳。円墳の少ない古市古墳群の中で、最大の直径(約76m)で幅約20mの濠が廻らされています。雄略天皇陵古墳、高鷲丸山古墳ともいわれています。宮内庁によって、陵名は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)で、すぐ南東側の平塚古墳と共に第21代雄略天皇の陵墓に治定されています。
 軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん、前の山古墳とも)は、大阪府羽曳野市軽里3丁目にある前方後円墳。現在、宮内庁によって、日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されています。日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられ、羽曳野市の名前の由来となっている古墳です。
 景行天皇の皇太子となった小碓命(おうすのみこと−倭建命)は、兄を殺害したことにより父より疎まれ、九州の熊襲の平定から東日本相模の平定まで全国平定の旅をしています。しかしながら、一介の皇太子である墓に、陵(大王−天皇の墓)の名が付いているのは…大王に準ずるとして付けられたのか。

吉村家住宅(主屋)
(羽曳野市島泉)

大津神社
(羽曳野市高鷲)

峰塚公園
(羽曳野市軽里)
 羽曳野市島泉に所在する歴史的建造物で、国の重要文化財に指定されています。
 かつて周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めていました。 主屋は大坂夏の陣で焼失後、再建された歴史ある家屋で、その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは寛政年間の頃です。屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されています。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいい、上層農家の家格を示すものです。
 別名丹下(たんげ)の大社として、親しまれています。この神社は、平安時代前期の『延喜式式内社』に記載された由緒ある神社です。
 古代には「古市大溝」という人工水路が近くに流れていたことから、当初はこの地を本拠地として水運にかかわっていた渡来系氏族・津氏の祖先神を 祀った社であったと考えられています。江戸時代には、丹下9ヵ村の氏神として人々に崇拝されていました。
 現在の祭神は、素戔鳴命(すさのおのみこと)・奇稻田姫命(くしなだひめのみこと)の夫婦神と天日鷲命(あめにひわしのみこと)、大山咋命(おおやまぐいのみこと)、菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)で、社殿は寛永17年(1640)に立てられた本殿、拝殿、幣殿(へいでん)からなります。
 羽曳野市軽里2丁目にある峯ヶ塚古墳を中心に整備された公園で、モニュメントゾーン、文化イベント広場ゾーン、郷土の森ゾーン、時とみどりの交流館(管理棟)からなります。
 峯ヶ塚古墳は墳丘長96m、二段築成の前方後円墳で、江戸時代には日本武尊白鳥陵とされていました。発掘調査により、大量の武器、武具、装飾品等が出土し、出土した埴輪片等から6世紀初頭の築造と考えられ、また二重の濠跡も発見されたため、当時の大王級の陵墓ではないかと推測されています。

野中寺 山門
(羽曳野市野々上)

壺井八幡宮
(羽曳野市壺井)

飛鳥戸神社
(羽曳野市飛鳥)
 近鉄南大阪線「藤井寺」駅の南約1.5kmのところにある。寺は南面していて、府道31号線(堺・羽曳野線)の「野中寺」交差点のすぐ西にある。
 野中寺は「河内三太子」の一つで、叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」に対し、「中の太子」と呼ばれています。寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。
 この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。船氏は、葛井(ふじい)氏や津氏と同族で、渡来した後もお互いに近くに居住していた。葛井氏は今の藤井寺、津氏はその西1.2キロの大津神社付近を本拠地としていた。
 河内源氏発祥の地・壺井に鎮座するお社で、八幡宮は御祭神が誉田別尊・仲哀天皇・神功皇后。その並びに鎮座する権現社は御祭神が源氏三代の頼信・頼義・義家。
 源頼信公が河内守に任ぜられ赴任した時、当地は香呂峰と呼ばれていたが、2代目頼義、その子義家によって平定された前9年・後3年の役から凱旋したのち、社殿を建立し石清水八幡宮の神霊を遷し祀ったのが壺井八幡宮である。
 また、拝殿へ上る石段手前にある「壺井水の井戸」は、前9年の役の折、頼義が戦場で井戸を掘りあてた水で戦意を盛り返し勝ち戦となったことから、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に掘った井戸に壺ごと埋めたと謂われており、つい最近まで飲み水として利用されていた。この時、地名も壺井と変更された。
 飛鳥戸神社の本殿は、南面の一間社檜皮葺の流造りで、美しい姿を現在に留めている。この神社は、延喜式内の名神大社として現在の羽曳野市地域では最高の神格を持つ社である。雄略天皇の時代、百済から渡来して来てこの地に住み着いた百済王族の昆支王(こんきおう)を、その子孫の飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)一族が祭神として祭祀していた。
 飛鳥戸神社の背後の丘陵地帯には、見事なブドウ畑が広がっている。収穫が終わり、葉っぱをすべて落とした農園はただ大地に網をかぶせたような風景しか見せないが、夏場には一面が緑の絨毯になり早生の畑はビニールで覆われる。この丘陵地帯には、古墳時代後期に小型の円墳が群集して築かれ、その数の多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれている。ブドウ畑の斜面には数か所群集墳もあるが、ブドウ畑によって破壊されたものも多い。これら群集墳は、当地域周辺に居住した朝鮮半島からの渡来系氏族の墳墓である。
 
杜本神社
(羽曳野市駒ヶ谷)

薄田隼人正兼相の墓
(羽曳野市誉田)
 
河内大塚山古墳
(松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘)
 近鉄駒ケ谷駅の東にあり、社頭を古道竹内街道が通っている。
 宮山の上に鎮座する延喜式内の名神大社で、祭神は「経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命ふつぬしのひめみこと)」の夫婦である。社伝によると、経津主命の14世の孫「伊波別命」に縁の一族が代々神社の管理にあたり、平安時代には、「矢作忌寸」と称したという。
 当社は、金剛輪寺とあわせて神宮寺形式をとっていた。また、現社殿は、江戸時代に高津神牡から移築したものである。
 本殿前には、「隼人石(はやといし)」といわれる珍しい人身獣面石像が左右一対に置かれている。
 
 薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では侍大将に任じられた武将。だが、前半生の経歴は詳らかでない。名は兼相、隼人正は通称名。
 無類の酒好きと伝えられ、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、博労ヶ渕の砦(現大阪市西区立売堀6丁目辺り)に立てこもり、木津川を上る徳川の軍勢を散々に打ち破り名を挙げたが、大勝利に酔い側近を引き連れ新町の色里に入り浸っているすきに、博労ヶ渕の砦を奪われ『橙(だいだい)武者』と評された。
(この『橙武者』の謂われだが、橙は見てくれは立派だが、まずく食べられないため正月の飾り物などにしか利用されない。要するに、兼相も見かけは立派な武者だが中身は使い物にならない無能な武将であると酷評されたのである)
 現在この周辺は住宅に取り込まれているが、大坂夏の陣(1615年)での激戦場(道明寺・誉田の戦い)の跡と伝わる。明治の初め、隼人の子孫が古戦場を精査し、この地を隼人の戦死した場所と断定して墓を建立した。
 現地の解説碑によると『この墓地は1885年(明治18年)隼人の子孫に当たる広島藩主浅野家一族によって建立され、1997年(平成8年)羽曳野市に寄贈された』とあり、現在は羽曳野市の「有形文化財」として保存されている。
 近鉄南大阪線「恵我ノ荘」駅から西に約500m、濠に囲まれて雄大な姿を見せる、東除川と西除川に挟まれた台地の上に築かれた大型の前方後円墳(全国第5位)。この古墳は、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置しており、墳丘を南北に横切る中軸線を境にして、西側が松原市西大塚、東側が羽曳野市南恵我之荘に属している。
 6世紀後半に築造された大和王権の大王墓と考えられているが、学術的発掘調査が行われていないため被葬者を特定できていない。民話には雄略天皇陵という伝承がある。大正期までは墳丘内に人が住居を構えており村が存在したが、1925年に陵墓参考地となり強制退去させられ、1932年に陵内立入禁止となって現在に至っている。現在は、宮内庁管轄となっている。
 かつて住んでいた人の証言から、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされている。古市古墳群の一つとされるが、百舌鳥古墳群と古市古墳群のおよそ中間地点、古市古墳群で最も西寄りの離れた場所に存在する。このため、学術的には古市古墳群に該当しない見方もあるため、世界遺産への登録を目指している両古墳群のリスト等には含まれていない古墳です。
 
 

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