歴史ウォーク 4

東高野街道・長尾街道を歩く 約6km

赤むくの木(東高野街道)
 
 

(その1  東高野街道・長尾街道について)

東高野街道

 高野街道といわれているものは、河内国錦部郡長野村(にしきべのこおりながのむら-河内長野市)と高野山を結ぶ街道であるが、長野以北は複数に分かれて各方面を結んだ。それらは東高野街道、中高野街道、下高野街道、西高野街道と呼ばれた。各々の街道経路については、このウォーキングには直接関係しないので省きます。

 東高野街道はいちばん東側に位置しており、八幡(京都府八幡市)で京街道 (大坂街道) と別れ、河内国の東端を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と合流しあとは、高野街道として紀見峠から、橋本、高野山へ至っている。

 いつ頃に形成され街道として完成したかは定かでないが、既存の集落を通らず、出来るだけ直線になるように通されていて、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市国府)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って街道がのびている。平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。

 その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山詣が盛んになると参拝道として賑わうようになっていった。現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する街道である。

長尾街道(ながおかいどう)

 現在の大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行(一部は重複)して走り、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。また、堺市街地では花田口筋とも呼ばれる。

 長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に、「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北4里(約2km・中国尺−但し計画値として)に平行して整備され、古くは「大津道」と呼ばれた。
 大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったこともあり、その大津に至る道という意味で「大津道」といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といわれたことから、それらの特徴からこの街道名が「長尾街道」と名付けられたと考えられる。
 【注】 津 − 古代より船の発着場として開けたところに、「○津」と名付けられた。

(その2  ウォーキング経路)

 平成22年11月24日(木)好天のもと、近鉄南大阪線「土師ノ里駅」を起点とし羽曳野市役所を終着点におき、連合会及び泉南市商工会の参加者を含め総計34名で、旧街道(長尾街道・東高野街道)周辺を辿るかたちでのウォーキングを始める。

 今回のウォーキングコース(最初は長持山古墳出土の石棺)を辿りながら、旧長尾街道沿いに歩を進めていく。続いて大寅蒲鉾(株)道明寺工場内(柏原市石川町)を見学し、玉手町の街並みを通り抜け円明町から石川の河川敷に入る。石川河川敷グラウンドは球技施設となっており、その広いグラウンド付近で昼食を摂りながら午後からのウォーキングに備え休憩をする。

 午後からは、柏羽藤クリーンセンター(柏原市円明町)へ向かう。センター内の案内とビデオ等での説明を受け、参加者各々がゴミ処理について大いに関心を持たれたようだ。その後、石川河川敷に再び下り玉手橋まで下流に向けて進んでいく。
 玉手橋からは、道明寺商店街を通り東高野街道沿いに誉田八幡宮へとウォーキングを続け、応神天皇陵古墳を北面から望んだ後、市役所へ到着し午後4時前に現地解散をした。
 



長持山古墳出土石棺



 クリーンセンター
 


玉手橋
 
 

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